「メリヤス(莫大小)屋をやってみよ。メリヤスの生地さえ織れれば、生地売りで結構やっていける。
生地屋になってはどうか?」
この言葉に商人を夢見ていた近藤茂右衛門の心は動いた。
一ヵ月半後、兄から借りた4千円を資本に4台のメリヤス機械が動き始めた。大正12年8月15日のことである。
半月後の9月1日、関東地方を大地震が襲い、一大需要が巻き起こった。「少しでも抜けんか!」と、以前訪ねた問屋が2、3軒走り込んできた。
少しずつ義理立てをし、結局、生産能力の倍の600貫織ることとなった。
三ヵ月半もの間、夜中の0時から翌夜の9時まで、21時間ぶっ通しで働き、約束を守り続けた。
信頼という資産を得ていったのである。
そしてまもなく、生地織りから商品(肌着)までを自社で一貫生産する体制を整備し、丸茂繊維の礎を築いたのであった。
昭和7年春、丸茂繊維に大きな転機が訪れる。
行商に同行して、ある地方を一緒に回った時である。
手さえ通ればよいという粗悪品と一緒に自社の商品が売られている光景を目にした。
『我々製造業者が、こういうところを相手にしていては時代遅れになる』と、その足で大阪のデパートへと向かった。そして、商品にはランクがあり、用途別に使い分けられていることを教わり決意を固めた。
『これから三年間、そろばんを捨てる。今は、欠点だらけの商品。損得抜きで三年間勉強しよう。高級店でそれも進物用として使っていただける最高品質の商品を創ることに没頭しよう』
それからの三年間、徹底的に品質にこだわった商品の研究、開発に明け暮れた。
そしてついに「これならどこのお店へ持っていっても恥ずかしくない。あんたの言値で買いましょう!」と言われたのである。
昭和10年、丸茂繊維の人々が創った商品が、
東京三越にある、ガラス張りのショーケースに入れられ、売り場の一角を飾った。
楽しそうに、笑顔で商品を選んでいるお客様の姿を見て彼は気づいた。
『私たちは、商品を作成して売ってはいるが、決してそれだけではなかった。私たちが本当に創っているもの、売っているもの、それは、お客様の喜び。笑顔だ。これからも私たちは商品を通して、家庭に喜びと笑顔を届けて行こう!』
この創業者の決意は、今も私たちの精神的な伝統となって受け継がれている。